感謝をして、毎日を生きる

スピリチュアル方面で思ったこと、感じたことを書いています。

「人間っていいな」を巡る考察 ~動物に生まれ変わるのか、人間に生まれ変わるのか、或いは、、~

先ずは以下の動画をご覧いただきたい。

 

人間っていいな


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

※上は実際に放映されていた1番目と2番目の一部がミックスされたショートバージョンのエンディング動画、下は1番目・2番目ともに全部入ったフルバージョン(歌のみ)が収録された動画

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1.歌詞

 

熊の子 見ていた かくれんぼ

お尻を出した子 一等賞

夕焼け こやけで 

また明日 また明日

いいな いいな

人間っていいな

美味しいオヤツに

ほかほかご飯

子供の帰りを

待ってるだろうな

僕も帰ろ

お家へ帰ろ

でんでん

でんぐり帰って

バイ バイ バイ

 

もぐらが見ていた

運動会

びりっこ元気だ 一等賞

夕焼け こやけで 

また明日

いいな  いいな

人間っていいな

皆で 仲良く

ポチャポチャお風呂

あったかい布団で

眠るんだろな

僕も帰ろ

お家へ帰ろ

でんでん

でんぐり帰って

バイ バイ バイ

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2.考察

この歌はある世代から上は皆が知っていることと思うが、かつて放送されていたアニメである「まんが日本昔ばなし」で、エンディングテーマ曲としてずっと使われていた曲である。

 

なぜこの歌を考察の対象に選んだのかというと、この歌、youtubeにアップロードされているわけであるが、何気なく動画を視聴しながらコメント欄を見ていると、

 

「この歌が昔から怖かった。今でも怖い。」

「むかし、親がこの歌を聞いて泣いているのを見た。」

「親がケータイの着歌にこれを設定していて、夜中にこれがケータイから鳴ったときに死ぬほど震えた。」

「真ん中に居る二人は実は人間ではないという噂があった。」

「他の動物たちはみな前を向いているのに、真ん中の二人はなぜ上を向いて走っているのだろう?」

「ウサギ2匹が最後のでんぐり返しの時に映っていないのが怖すぎる。」

「この歌はカゴメカゴメよりも闇が深い。」

 

といった内容のコメントが見られて、興味深く思ったからだ。

これは何かあるなと思ったので、考察をしてみた。

 

まず最初に結論から書いてしまおう。

この歌は、輪廻転生について歌ったものであると考えられる。

理由は、「人間っていいな」という、動物の立場に立って書かれたと思われる、人間の生活を羨むような歌詞内容と、コメント欄に書かれている「恐怖」とか「闇」といったキーワードを併せて考え、直観的に導き出されたことにある。

 

直観として、輪廻転生について歌ったものであるという仮説がまず筆者の念頭に浮かんだ。その上で、個別の歌詞を一つずつ見ていくと、ああなるほどな、と腑に落ちる所があるのだ。それでは「人間っていいな」=「輪廻転生について歌ったもの説」という前提の下で、歌詞を最初から見ていきたい。

 

「熊の子 見ていた かくれんぼ」

かくれんぼはご存じの通り、子供たちが複数名どこかに隠れて、「鬼」になった一人が隠れている人全員を見つけるゲームであるが、この歌で使われているかくれんぼの意味は、この地上で目立たずに多くの人々が生きているという意味のことであると、考えられる。

目立たずに生きているとは、肉体3次元よりも高次元の存在(宇宙存在)から見た場合に、目立っていない、光っていないということである。

より具体的には、魂の周波数(振動数)のことなのである。魂の周波数が高く高く上がっていくと、高次元から見えやすかったり、見えるようになるのだ。そしてその周波数の高みを一定レベル以上に極めていくと、晴れて魂が高次元へアセンション、地球卒業ということになるのである。

※魂の周波数を上げていくのってどうしたらいいの?ということについては、拙記事「トイレに神様なんていない ~「決意と調和」=宇宙最高法理で生きるということ~」をご参照頂きたい。

kaiunsite.hatenablog.com

 

ただ、かくれんぼしているのは、本来、人間のはずである。動物ではない。

「熊の子見ていた」だからである。熊(の子)は、人間がかくれんぼしているのを傍から見ていたのであって、参加していたわけではないはずなのだ。

だから、以下のシーンのように動物も人間も皆で一緒にかくれんぼしているのは、歌詞の意味からすると、本来はおかしいはずなのである。

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「熊の子」は人間のかくれんぼを見ていたのであって、参加しているのはおかしい。

 

恐らくこの歌の歌詞を作った人は、作った時点ではこういう絵柄になることを予想していなかったのではないだろうか。

しかしこの、人間も動物も一緒にかくれんぼに参加しているという絵柄には、ちゃんと意味があるのである。ここで次の歌詞を見てみよう。

 

「お尻を出した子 一等賞」

お尻を出した子とは、何か?

これはお尻を出すという恥ずかしいような行為とか大胆な行為、つまり、

決意・決断・覚悟を伴うような思い切った行為のことである。

特に、先陣を切ってやる、というようなニュアンスも含んでいるように思う。

そして、そういう行為をした者は一等賞ですよということ、つまり、魂の周波数が上がりますよ、魂のステージが一段階上がりますよ、ということだ。

ただし、気を付けなければならないことは、その行為は愛や調和に基づいたものでなければならないということ。

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例えば犯罪の類は、大胆な決意や決断、覚悟を伴うものも多いが、大抵の場合は愛や調和に基づいたものではなく、身勝手なものである。

また、会社を興す人が居た場合に、自らの金銭的な欲望や贅沢をもっぱら目的とする人と、社会貢献とか人助けなどがメインの目的の人とでは、同じ起業というある種の大胆な決意を要する行為であっても、異なってくる。

後者こそが、「お尻を出した子一等賞」に該当するわけである。

ここの歌詞部分だけでは愛と調和の部分が書かれていないので、注意が必要だ。

もちろん、決して自分をないがしろにして良い、という意味ではないが、他人のことを常に先に考えておく必要があるということ。道は譲るのが基本であるのと一緒だ。その方が安全である。できればWINWINの関係であることが最も望ましいだろう。

カルネアデスの板のような状況があった場合に、どうするか。

これは難しい問題だが、宇宙の最高法理は常に、愛と調和に基づく決意と決断であることは確かであろう。

しかしこのような究極的な状況は、滅多に起こることではないから、心配は要らないように思う。

 

「夕焼け こやけで 

また明日 また明日」

 明日も同じことの繰り返しだよ、ということ。

 前節を受けた同じこと、である。

つまり、毎日毎日かくれんぼしてお尻を出して、

一等賞を取らないといけないということ。

愛と調和に基づいた、決意・決断・覚悟を伴う行動をし続け、

魂の周波数を上げ続けることに、毎日精進し続けなければいけないよ、

という意味であると思われる。

 

「いいな いいな

人間っていいな

美味しいオヤツに

ほかほかご飯

子供の帰りを

待ってるだろうな」

通常は、動物(熊の子)から見た人間の暮らしを羨んでいる様子であると思われる。

そのままの意味である。

ここでいう動物は、ペットではなく野生動物のことだから、

当然美味しいオヤツもホカホカご飯も何もない。木の下に落ちてるどんぐりとか、

虫の死骸とか、そんなものを食べたりしている。好きで食べてるわけではないだろう。

他にないから仕方なく食べている。

人間が美味しいと感じる物は、動物だって大抵は美味しい。

親だって野生動物は人間のように高校や大学を出るまでずっと面倒見てくれることもなく、生まれてから少し世話してもらったら、すぐに子供は自立を余儀なくされる。

自立した子供を家で迎えてくれることもないのだ。そもそも家(ねぐら、住み処)がない場合も多くあるだろう。

以上が、通常の解釈の場合だ。

 

実はこれには、別の意味が解釈し得る。

それは一つにはこの歌の主語が、動物(熊の子)ではなくて、人間であるということ。

「人間っていいな」と人間を羨んでいるんだから、動物に決まっているだろう。

という声が聞こえそうだ。

確かに主語を人間とすると、人間が人間を羨んでしまっていることになるから、

一見するとつじつまが合わないが、この歌の解釈について輪廻転生説に立っていると、最初に筆者が述べたことを思い出して頂きたい。

人間が動物に生まれ変わることが有り得るのである。

つまり、今世人間をやっているんだけれども、これから動物に生まれ変わる人間が、人間を羨ましく思っているという解釈が成り立つのだ。

千と千尋の神隠し」で、千尋の両親が神前の供物を勝手に食べて豚に変えられてしまうシーンがあるが、

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問題のシーン。ここから千尋の油屋旅館での苦難の日々が始まった。

 

宮崎駿監督は、「人間は仕事をしていなければ動物に生まれ変わってしまう」というようなことを言っている。このシーンについても、好き勝手に快楽を貪って生きていると、動物に生まれ変わってしまうよ、ということが言いたかったに違いない。

勝手に食べる=お金を払っていない=愛や調和に反する、また、働いていないので決意や決断を伴う行動もしていない=魂の成長がない=動物に生まれ変わる

 

宮崎監督は仕事をしていることを重視しているけれども、宇宙最高法理とは愛・調和と、決意・決断とが重なり合う行動。

必ずしも仕事に限ったことではない。長期的な恋愛とか、結婚や子育てとか、ペットの飼育とか、ボランティア活動、趣味やスポーツなど、要はそこに愛・調和と、決意・決断が重なり合う行動があれば、良いということになろう。

見方を変えると、何でも良いからただ仕事をしてさえいれば必ずしも良いというわけでもないことに、注意が必要だ。 愛・調和と、決意・決断の重なる要素が仕事に入っていればOKだし、要素が入っていないか入っていても魂の周波数上昇に照らして極端に少なければNG、ということにもなり得る。この要素の多寡は、職種によって結構変わってくる面もあるように思う。

以上が他に考えられる解釈のうち、一つ目の解釈。

 

もう一つの解釈は、「人間っていいな」と「人間」を羨んでいる主語が人間であることは先の解釈と同じだけれども、ここでいう「人間」が、本当は人間ではなくてより高次元の、アセンションした先の宇宙存在であるということだ。要は宇宙人である。

高次元では仕事もお金もないし、そもそも物を食べたりとかする必要もない。肉体を持っていないのだから、そういうことになる。宇宙は愛に満ちていると言われるのであるから、人々は仲間同士皆で助け合うのが当たり前だし、騙したり嘘ついたり傷つけたりはおろか、批判や非難したり、バカにしたりからかったりといった程度のことも、恐らくないのであろう。この3次元地球世界とは、何もかもが違うのだ。

 

恐らくは基本的に性善説に立脚した世界で、完成された世界なのだろう。

愛で満ち溢れているとは、そういうことだ。

だから高次元では人は通常は本当のことしか言わないはずだから、人を疑うこともないのだ。疑う必要がない。本当のことしか言わない(人を欺いたり騙したりしない)前提で社会が回っているのだから。

(よく発達障害が人のことを疑わないで信じやすい、人の言葉を額面通りに受け取りやすいと言われるが、発達障害がスターシードであることが多いということならば、そういうカラクリが背後にはあったのである。馬鹿正直なのではなく、魂が愛と調和の方向へ高度に発達している。)

では次の歌詞の解釈に移るとしよう。

 

「僕も帰ろ

お家へ帰ろ

でんでん

でんぐり帰って

バイ バイ バイ」

「でんでんでんぐり返って」は、

言うまでもなく輪廻転生のことである。

ぐるぐる地球輪廻を繰り返していることをでんぐり返しで表現している。

「僕も帰ろ」の「僕」=主語が動物であっても人間であっても、

輪廻を繰り返すことは同じ。

「バイバイバイ」はエンディングテーマ曲なので使われた表現と思われるが、

輪廻を繰り返して魂が成長して周波数が極限まで高まり、地球を卒業できるんだよ、ということをも含ませている可能性もある。

 

以上が歌詞の1番の解釈である。

2番で歌われていることは、表現が異なるだけで、歌の創り手が言いたいことは1番と大体一緒である。ただ一つだけ言及しておきたい箇所がある。

 

「びりっこ元気だ 一等賞」

運動会でビリになって、元気で一等賞だと言ってるが、

これは運動会の順位=競争社会における成功の価値観

と言い換えることができるであろう。

 

お金=会社の利益とか売り上げとかお客さん、収入の多寡などを争うこと

ステータス=学歴とか職歴、ポストなどを争うこと

これを戒めていることは明らかだ。

 

もちろんこの世で生きていくためにこうしたものは必要であることも確かだから、

完全否定されるものでもないけれども、こうした価値観を第一に前面に掲げて生きるということが、根本的に間違っているということを言いたいのだと思う。

決して先に来ては行けない。競争だから。争うことになるから。

誰かを蹴落とそうとしたり追い落とそうとしたり、見下そうとしたり、差別したり、バカにしたりしようとすることにつながってしまうから。

愛と調和の宇宙最高法理に反することになってしまうからなのである。

※運動会のかけっこで同時にゴールしましょう、競争は良くない。という議論がかつて巻き起こったことがあった。その是非はともかく、背景にはこの宇宙最高法理があるがために、そのような議論が起こったことは間違いない。

 

そして「元気だ」というのは、お金やステータスがないこと、競争に負けているように見える状態を嘆かないで、明るく元気に笑ってないといけないということを示しているのであろう。

(執筆途中)