トイレに神様なんていない ~「決意と調和」=宇宙最高法理で生きるということ~
最近になってようやく分かってきたことがある。
それは、これまでなんとなく分かっていたことではあったが、腑に落ちるという形で、ようやく理解することができたので、記しておきたい。
二つある。
まず一つは、「和」の精神のことである。
宇宙の最高法理として、「愛」の精神がある。これは、種々のチャネリングを通した情報、文献を拾い集めた結果で、判断に至ったものである。
この文脈上の「愛」とは、決して男女がアレコレとイイコトやること、その類ではない。そのことにまず注意が必要だ。
「愛」という造語、概念は、とても歴史が新しく、明治以降に西洋から輸入してできたものである。しかし宇宙最高法理とは国連憲章どころの騒ぎではないほど重要なものなのであるならば、そんな最近になって生まれた概念であるわけがない。太古の昔から存在する概念でなければつじつまが合わないはずである。
だから宇宙最高法理の「愛」とは、我々が用いている「愛」とは別の概念、つまり誤訳であると考えるのが相当である。
宇宙最高法理としての「愛」の真義は、日本古来より存在する「和」の精神のことであると予想する。「和」なら、聖徳太子以来、和を以て貴しと為すと、「国是」とされて、聖徳太子はお札にまでなった偉人の扱いであり、「和」は、「和国」という国号にまでなった。
最近では「令和(和を令ずる)」という元号にまでなり、それを発表したガースーは、
総理大臣になってしまった。これは、本当は国会議員にと言うよりは、天により選任されたものであろう?
それほどまでにこの国で強調されてきたのが、「和」なのである。
「和」は、繰り返し繰り返し強調され過ぎるほどに強調され、重視され、最重要の地位を占めている。宇宙最高法理の「愛」とイコールか、少なくともニアリーイコールであると考えて間違いがなかろう。
ただし注意しなければならないのは、本当の意味での「和」の精神とは、例えばなんでもかんでもつるんで集団行動・団体行動をとるとか、周りがそれをやるから自分もという隣百姓とか、空気を読んで目立ったことしないとか、人目を常に気にするとか、そういうことではないはずなのである。
本来は、これは人と調和して上手くやっていく、という精神だったはずである。
その中心は、恐らくは
「許す心」
「相手の立場に立つ心」
「尊敬する心」
「思いやりの心」
「感謝の心」
などが支柱であったはずと考える。
「許す心」は、そりの合わない夫婦がいがみ合いながら長年一緒に暮らしているという事実がよく魂修行と言われることなどから、和の精神の一部であるように思う。
「相手の立場に立つ心」は、カルマの法則で誰かに嫌なことをした場合は嫌なことが返ってくることがある、という事実に基づいた推論である。
「尊敬する心」は、古代中国の孔子などが儒教と言う学問まで作って、「礼」を説き、長年影響力を与え続けてきたことによるもの。宇宙最高法理の一部であると考えれば納得がいく。
「思いやりの心」は、様々な福祉的な活動の隆盛を見ていれば一目瞭然のことだ。寄付文化が根付いている国や民族まであり、成功を収めている。何か良いことがあるから、行われているのだ。
「感謝の心」は、「ありがとう」とひたすら唱えると良いことが起こるという、知る人ぞ知る有名な法則から導き出されたものだ。
筆者個人としては、和の精神を上記の形で再定義したい。
この本来の意味での「和」の精神が、憲法や国連憲章を軽く凌駕する、宇宙最高法理なんだぞ、ということが、まず分かってきたことの1つ。
二つ目。
それは、何かを決意・決断するということが、人の魂を成長させる、ということである。
軽すぎるものでは、あまり意味がない。単なる日常のルーティン化した行動ということになってしまう。
少し負荷のかかる決意からが、成長の始まりなのだろうと思う。
というのも、トイレ掃除や断捨離、靴磨きで運が良くなる、という話が有名だからだ。
トイレ掃除とか断捨離が「運」が良くなるとされるのは、波動が清浄になるからというよりも、小さな決意が伴っていることが多い為であろう。多少なりとも、守りの姿勢から思い切って一歩踏み込む行為なのだ。
トイレに神様がいるから運が良くなるからではなくて、そもそも自分が神様で、トイレ掃除をするという一歩踏み込んだ決意をすることで、 その神様としての自分の霊性(≒霊力≒運)が上がる、ということが、真相だったのである。
運が良くなる、というのは、言い換えれば波動が強くなる、ということ。
運が良くなる≒波動が強くなる≒人の魂が成長する、ということで良いのではないだろうか?魂が成長する≒アセンションする、ということなのかもしれない。
だから決意が運が良くなる≒波動が強くなる≒人の魂が成長する、ということで演繹的に考えると、風水的な考え方の他に、競馬や競艇などのギャンブルで思い切って大金つぎ込むこととか、行ったことのない個人店に入る行為や、買い物・外食・ネットショッピングなどで高額な物を(なるべく時間をかけずに)買う・頼むという行為も、「決意」ということなのだから、人の魂を成長させるということになる。
そう考えると、競馬や競艇、パチンコのプロというのが存在し得る理由が理解できる。ギャンブルも人の魂を成長させることがある、ということになるからだ。必ずしも、仕事が全てではないのである。
最近、ホリエモンが若い連中に高級うな重を敢えて外食で頼むことで、得られる情報があるとかなんとか言って勧めていたが、「決意」で魂を成長させることを言っているのだと思えば、納得がいく。
またそういえば昔、コンビニ弁当やスイーツは、結構高いものが多いが、某アイドルグループが男らしさを競うゲームとかで、コンビニでスイーツなどを時間をかけずに決めて買うという遊びをしていたという話を、耳にしたことがある。これも「決意」を意識した魂磨きの一環とみて良いだろう。
決断ということになると決意よりももっと重くなる。意を決してということになる。腹をくくるというニュアンスが出てくる。負荷が大きければ大きいほど、成長の度合いは強くなっていくのだろう。
日常のルーティンや通常思考や行動と、決意とか決断の感覚との違いは、自分の肌感覚で感じて分かるはずだ。選択や決定に負荷を感じることが、その目印と思って良い。
そして、先に述べた「和」の精神と、決意・決断・実行が同期している状態と言うのが、最も理想的な状態と言えるのだと思う。
具体的には、軽いものならば道で迷っていて困っている人を見かけたときに、「大丈夫ですか?道にお困りですか?」などと声をかける行為とか、お年寄りに席を譲る行為や、迷子の子供を保護する行為などが、これに当たるだろう。
重いものなら、海や川で溺れている人を飛び込んで助けるとか、
臓器提供して誰かを助けるとか、とにかく通常は踏み切るのが躊躇われる行為。
踏切で轢かれそうになっているお年寄りを、自分の命を犠牲にして助けた女性の話もあった。これは最高に徳の高い行為の一つであろう。
先に挙げた風水やギャンブル、買い物や外食などと「和の精神」を結びつけるとなると、これは少し工夫やアイデアが必要かもしれない。
例えば流行っていない潰れそうなお店があったとして、そのお店を助けたいという思いで、高額な商品やサービスを敢えて購入するということであれば、これは決意と和が結びついている行為と言うことになる。
あるいは、競馬で大穴で大金を当ててそのお金を子ども食堂に寄付したいとか、そういう思いで馬券を買う行為。必ずしも当てなくて良い、そうと決意して買うだけでよい。
それだけで決意と和が結びついていることになり、魂が成長し徳の高い行為を実践しているということになるのだ。もちろん、当てて実際に寄付することがベターであることは言うまでもないが。
見えない「ポイント」があると思えばよい。
和の精神と決意・決断・実行がマッチングした行為があれば、ポイントが貯まっていくのだ。両者を掛け合わせた行動や言動を繰り返し繰り返し、継続的にすることだ。
そうすることで、ポイントは貯まってゆく。
ポイントが貯まっていったらどうなるのか?
それはアセンションをしていくということであるし、
あの世で良いことがあるという理解で良いだろう。