感謝をして、毎日を生きる

スピリチュアル方面で思ったこと、感じたことを書いています。

「人間っていいな」を巡る考察 ~動物に生まれ変わるのか、人間に生まれ変わるのか、或いは、、~

先ずは以下の動画をご覧いただきたい。

 

人間っていいな


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

※上は実際に放映されていた1番目と2番目の一部がミックスされたショートバージョンのエンディング動画、下は1番目・2番目ともに全部入ったフルバージョン(歌のみ)が収録された動画

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1.歌詞

 

熊の子 見ていた かくれんぼ

お尻を出した子 一等賞

夕焼け こやけで 

また明日 また明日

いいな いいな

人間っていいな

美味しいオヤツに

ほかほかご飯

子供の帰りを

待ってるだろうな

僕も帰ろ

お家へ帰ろ

でんでん

でんぐり帰って

バイ バイ バイ

 

もぐらが見ていた

運動会

びりっこ元気だ 一等賞

夕焼け こやけで 

また明日

いいな  いいな

人間っていいな

皆で 仲良く

ポチャポチャお風呂

あったかい布団で

眠るんだろな

僕も帰ろ

お家へ帰ろ

でんでん

でんぐり帰って

バイ バイ バイ

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2.考察

この歌はある世代から上は皆が知っていることと思うが、かつて放送されていたアニメである「まんが日本昔ばなし」で、エンディングテーマ曲としてずっと使われていた曲である。

 

なぜこの歌を考察の対象に選んだのかというと、この歌、youtubeにアップロードされているわけであるが、何気なく動画を視聴しながらコメント欄を見ていると、

 

「この歌が昔から怖かった。今でも怖い。」

「むかし、親がこの歌を聞いて泣いているのを見た。」

「親がケータイの着歌にこれを設定していて、夜中にこれがケータイから鳴ったときに死ぬほど震えた。」

「真ん中に居る二人は実は人間ではないという噂があった。」

「他の動物たちはみな前を向いているのに、真ん中の二人はなぜ上を向いて走っているのだろう?」

「ウサギ2匹が最後のでんぐり返しの時に映っていないのが怖すぎる。」

「この歌はカゴメカゴメよりも闇が深い。」

 

といった内容のコメントが見られて、興味深く思ったからだ。

これは何かあるなと思ったので、考察をしてみた。

 

まず最初に結論から書いてしまおう。

この歌は、輪廻転生について歌ったものであると考えられる。

理由は、「人間っていいな」という、動物の立場に立って書かれたと思われる、人間の生活を羨むような歌詞内容と、コメント欄に書かれている「恐怖」とか「闇」といったキーワードを併せて考え、直観的に導き出されたことにある。

 

直観として、輪廻転生について歌ったものであるという仮説がまず筆者の念頭に浮かんだ。その上で、個別の歌詞を一つずつ見ていくと、ああなるほどな、と腑に落ちる所があるのだ。それでは「人間っていいな」=「輪廻転生について歌ったもの説」という前提の下で、歌詞を最初から見ていきたい。

 

「熊の子 見ていた かくれんぼ」

かくれんぼはご存じの通り、子供たちが複数名どこかに隠れて、「鬼」になった一人が隠れている人全員を見つけるゲームであるが、この歌で使われているかくれんぼの意味は、この地上で目立たずに多くの人々が生きているという意味のことであると、考えられる。

目立たずに生きているとは、肉体3次元よりも高次元の存在(宇宙存在)から見た場合に、目立っていない、光っていないということである。

より具体的には、魂の周波数(振動数)のことなのである。魂の周波数が高く高く上がっていくと、高次元から見えやすかったり、見えるようになるのだ。そしてその周波数の高みを一定レベル以上に極めていくと、晴れて魂が高次元へアセンション、地球卒業ということになるのである。

※魂の周波数を上げていくのってどうしたらいいの?ということについては、拙記事「トイレに神様なんていない ~「決意と調和」=宇宙最高法理で生きるということ~」をご参照頂きたい。

kaiunsite.hatenablog.com

 

ただ、かくれんぼしているのは、本来、人間のはずである。動物ではない。

「熊の子見ていた」だからである。熊(の子)は、人間がかくれんぼしているのを傍から見ていたのであって、参加していたわけではないはずなのだ。

だから、以下のシーンのように動物も人間も皆で一緒にかくれんぼしているのは、歌詞の意味からすると、本来はおかしいはずなのである。

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「熊の子」は人間のかくれんぼを見ていたのであって、参加しているのはおかしい。

 

恐らくこの歌の歌詞を作った人は、作った時点ではこういう絵柄になることを予想していなかったのではないだろうか。

しかしこの、人間も動物も一緒にかくれんぼに参加しているという絵柄には、ちゃんと意味があるのである。ここで次の歌詞を見てみよう。

 

「お尻を出した子 一等賞」

お尻を出した子とは、何か?

これはお尻を出すという恥ずかしいような行為とか大胆な行為、つまり、

決意・決断・覚悟を伴うような思い切った行為のことである。

特に、先陣を切ってやる、というようなニュアンスも含んでいるように思う。

そして、そういう行為をした者は一等賞ですよということ、つまり、魂の周波数が上がりますよ、魂のステージが一段階上がりますよ、ということだ。

ただし、気を付けなければならないことは、その行為は愛や調和に基づいたものでなければならないということ。

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例えば犯罪の類は、大胆な決意や決断、覚悟を伴うものも多いが、大抵の場合は愛や調和に基づいたものではなく、身勝手なものである。

また、会社を興す人が居た場合に、自らの金銭的な欲望や贅沢をもっぱら目的とする人と、社会貢献とか人助けなどがメインの目的の人とでは、同じ起業というある種の大胆な決意を要する行為であっても、異なってくる。

後者こそが、「お尻を出した子一等賞」に該当するわけである。

ここの歌詞部分だけでは愛と調和の部分が書かれていないので、注意が必要だ。

もちろん、決して自分をないがしろにして良い、という意味ではないが、他人のことを常に先に考えておく必要があるということ。道は譲るのが基本であるのと一緒だ。その方が安全である。できればWINWINの関係であることが最も望ましいだろう。

カルネアデスの板のような状況があった場合に、どうするか。

これは難しい問題だが、宇宙の最高法理は常に、愛と調和に基づく決意と決断であることは確かであろう。

しかしこのような究極的な状況は、滅多に起こることではないから、心配は要らないように思う。

 

「夕焼け こやけで 

また明日 また明日」

 明日も同じことの繰り返しだよ、ということ。

 前節を受けた同じこと、である。

つまり、毎日毎日かくれんぼしてお尻を出して、

一等賞を取らないといけないということ。

愛と調和に基づいた、決意・決断・覚悟を伴う行動をし続け、

魂の周波数を上げ続けることに、毎日精進し続けなければいけないよ、

という意味であると思われる。

 

「いいな いいな

人間っていいな

美味しいオヤツに

ほかほかご飯

子供の帰りを

待ってるだろうな」

通常は、動物(熊の子)から見た人間の暮らしを羨んでいる様子であると思われる。

そのままの意味である。

ここでいう動物は、ペットではなく野生動物のことだから、

当然美味しいオヤツもホカホカご飯も何もない。木の下に落ちてるどんぐりとか、

虫の死骸とか、そんなものを食べたりしている。好きで食べてるわけではないだろう。

他にないから仕方なく食べている。

人間が美味しいと感じる物は、動物だって大抵は美味しい。

親だって野生動物は人間のように高校や大学を出るまでずっと面倒見てくれることもなく、生まれてから少し世話してもらったら、すぐに子供は自立を余儀なくされる。

自立した子供を家で迎えてくれることもないのだ。そもそも家(ねぐら、住み処)がない場合も多くあるだろう。

以上が、通常の解釈の場合だ。

 

実はこれには、別の意味が解釈し得る。

それは一つにはこの歌の主語が、動物(熊の子)ではなくて、人間であるということ。

「人間っていいな」と人間を羨んでいるんだから、動物に決まっているだろう。

という声が聞こえそうだ。

確かに主語を人間とすると、人間が人間を羨んでしまっていることになるから、

一見するとつじつまが合わないが、この歌の解釈について輪廻転生説に立っていると、最初に筆者が述べたことを思い出して頂きたい。

人間が動物に生まれ変わることが有り得るのである。

つまり、今世人間をやっているんだけれども、これから動物に生まれ変わる人間が、人間を羨ましく思っているという解釈が成り立つのだ。

千と千尋の神隠し」で、千尋の両親が神前の供物を勝手に食べて豚に変えられてしまうシーンがあるが、

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問題のシーン。ここから千尋の油屋旅館での苦難の日々が始まった。

 

宮崎駿監督は、「人間は仕事をしていなければ動物に生まれ変わってしまう」というようなことを言っている。このシーンについても、好き勝手に快楽を貪って生きていると、動物に生まれ変わってしまうよ、ということが言いたかったに違いない。

勝手に食べる=お金を払っていない=愛や調和に反する、また、働いていないので決意や決断を伴う行動もしていない=魂の成長がない=動物に生まれ変わる

 

宮崎監督は仕事をしていることを重視しているけれども、宇宙最高法理とは愛・調和と、決意・決断とが重なり合う行動。

必ずしも仕事に限ったことではない。長期的な恋愛とか、結婚や子育てとか、ペットの飼育とか、ボランティア活動、趣味やスポーツなど、要はそこに愛・調和と、決意・決断が重なり合う行動があれば、良いということになろう。

見方を変えると、何でも良いからただ仕事をしてさえいれば必ずしも良いというわけでもないことに、注意が必要だ。 愛・調和と、決意・決断の重なる要素が仕事に入っていればOKだし、要素が入っていないか入っていても魂の周波数上昇に照らして極端に少なければNG、ということにもなり得る。この要素の多寡は、職種によって結構変わってくる面もあるように思う。

以上が他に考えられる解釈のうち、一つ目の解釈。

 

もう一つの解釈は、「人間っていいな」と「人間」を羨んでいる主語が人間であることは先の解釈と同じだけれども、ここでいう「人間」が、本当は人間ではなくてより高次元の、アセンションした先の宇宙存在であるということだ。要は宇宙人である。

高次元では仕事もお金もないし、そもそも物を食べたりとかする必要もない。肉体を持っていないのだから、そういうことになる。宇宙は愛に満ちていると言われるのであるから、人々は仲間同士皆で助け合うのが当たり前だし、騙したり嘘ついたり傷つけたりはおろか、批判や非難したり、バカにしたりからかったりといった程度のことも、恐らくないのであろう。この3次元地球世界とは、何もかもが違うのだ。

 

恐らくは基本的に性善説に立脚した世界で、完成された世界なのだろう。

愛で満ち溢れているとは、そういうことだ。

だから高次元では人は通常は本当のことしか言わないはずだから、人を疑うこともないのだ。疑う必要がない。本当のことしか言わない(人を欺いたり騙したりしない)前提で社会が回っているのだから。

(よく発達障害が人のことを疑わないで信じやすい、人の言葉を額面通りに受け取りやすいと言われるが、発達障害がスターシードであることが多いということならば、そういうカラクリが背後にはあったのである。馬鹿正直なのではなく、魂が愛と調和の方向へ高度に発達している。)

では次の歌詞の解釈に移るとしよう。

 

「僕も帰ろ

お家へ帰ろ

でんでん

でんぐり帰って

バイ バイ バイ」

「でんでんでんぐり返って」は、

言うまでもなく輪廻転生のことである。

ぐるぐる地球輪廻を繰り返していることをでんぐり返しで表現している。

「僕も帰ろ」の「僕」=主語が動物であっても人間であっても、

輪廻を繰り返すことは同じ。

「バイバイバイ」はエンディングテーマ曲なので使われた表現と思われるが、

輪廻を繰り返して魂が成長して周波数が極限まで高まり、地球を卒業できるんだよ、ということをも含ませている可能性もある。

 

以上が歌詞の1番の解釈である。

2番で歌われていることは、表現が異なるだけで、歌の創り手が言いたいことは1番と大体一緒である。ただ一つだけ言及しておきたい箇所がある。

 

「びりっこ元気だ 一等賞」

運動会でビリになって、元気で一等賞だと言ってるが、

これは運動会の順位=競争社会における成功の価値観

と言い換えることができるであろう。

 

お金=会社の利益とか売り上げとかお客さん、収入の多寡などを争うこと

ステータス=学歴とか職歴、ポストなどを争うこと

これを戒めていることは明らかだ。

 

もちろんこの世で生きていくためにこうしたものは必要であることも確かだから、

完全否定されるものでもないけれども、こうした価値観を第一に前面に掲げて生きるということが、根本的に間違っているということを言いたいのだと思う。

決して先に来ては行けない。競争だから。争うことになるから。

誰かを蹴落とそうとしたり追い落とそうとしたり、見下そうとしたり、差別したり、バカにしたりしようとすることにつながってしまうから。

愛と調和の宇宙最高法理に反することになってしまうからなのである。

※運動会のかけっこで同時にゴールしましょう、競争は良くない。という議論がかつて巻き起こったことがあった。その是非はともかく、背景にはこの宇宙最高法理があるがために、そのような議論が起こったことは間違いない。

 

そして「元気だ」というのは、お金やステータスがないこと、競争に負けているように見える状態を嘆かないで、明るく元気に笑ってないといけないということを示しているのであろう。

(執筆途中)

「かごめかごめ」を巡る考察 ~地球輪廻の環を抜けることが困難であった時代~

先ずは以下の動画をご覧いただきたい。

 

かごめかごめ


www.youtube.com

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1.歌詞

 

かごめかごめ

籠の中の鳥は

いついつ出やる

夜明けの晩に

鶴と亀が(と)滑った

後ろの正面だあれ?

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2.考察

「かごめかごめ」は伝わった地方によって歌詞が違うが、

もっとも典型的な歌詞は、上記の物であるように思われる。

 

この歌は謎が多いとされており、色々な解釈がされてきている。

多義的な解釈を楽しむために自然発生した歌とする説、元々児童遊戯の歌として成立したとする説、遊女説、日光東照宮説、豊國廟説、芦名埋蔵金説、陰謀説、囚人説、明智光秀南光坊天海同一人物説、神示説、降霊術説、呪術説など、ウィキペディアに挙がっている説だけでも枚挙に暇(いとま)がない。

 

だがどれも大体共通するのは、闇が深いとされていることだ。

どこか不吉で暗い影がある。本当の所は分からないが、筆者なりの解釈を試みたい。

 

「かごめかごめ」

「かこめかこめ(囲め囲め)」が訛ったものとする解釈を採用する。

子供たちが「鬼」とされた真ん中の者を実際に輪を作って囲んでいるためだ。

これ自体はそんなに難しくない解釈だろう。

だが、鬼の子を囲む子供たちの作っている「輪」

この輪は、地球で輪廻を繰り返している、輪廻システムのことを指し示している物と筆者は考える。

 

 

「籠の中の鳥は」

魂の進化向上や発展、矯正のために地上で魂修行をしている人間を表している。

地球輪廻の輪の中に閉じ込められて=籠、出られないでいることを意味している。

鳥、としているのは、単に籠に閉じ込める生き物として適当なのが鳥というのもあるだろうが、鳥が爬虫類から進化した存在と言われていることも、もしかすると関係しているのかもしれない。

爬虫類脳は、生存欲求・生殖欲求・支配と従属、という特徴があり、ネガティヴに振れやすいものだ。

 我々は爬虫類脳的な性質から、社会性や理性を持った哺乳類や人間的な性質へ魂を進化・発展・向上させるために、地上で魂修行をしている、という見方がある。

 

「いついつ出やる」

前の詞を受けて、一体いつになったら輪廻の輪から出られるのだろうか?という意味である。

現代のように情報化社会でなかった時代に、地域ごとの変化は有るにせよこれだけ全国的に普及し、そして今もなお語り継がれている歌なのだ。何かしら、ただならぬ重大な意味があるということ。だからこそ、歌詞の真義について様々な説が挙げられているのである。

筆者の解釈の通りならば、この地球輪廻というものは相当な長期間に渡って続いてきたものであることが、うかがい知れよう。

 

 

「夜明けの晩に」

夜明けというのは、早朝のことである。

晩は夕方だ。

だから、早朝の夕方というのは意味が通らない。

矛盾していることになる。

したがって、存在しない時である。ということになる。

 

 

「鶴と亀滑った」

神話的なレベルの話では、鶴は寿命が千年、亀は万年(1万年)とされている。

滑った、というのは、ここは解釈が難しい所であるが、そのままの意味であると考えたい。

滑るはスケートやソリのようにスーッと滑るイメージと、冬の凍った路面でつるっと滑ってひっくり返って転ぶイメージが一般的であるが、この場合は後者の意味であると、とりあえず仮定する。

鳥なので基本飛ぶ生き物だから鶴は滑ることはなさそうだし、どっしり4つ足で安定している亀も滑りそうもない

寿命の桁外れに長い者でも、できそうもない、起こりそうもないことだ、という意味であると考えられる。

 

 

「後ろの正面だあれ?」

後ろの正面、という表現は、矛盾した表現なのである。

これは、筆者がここまで書いてきた文脈の流れでは、後ろを向いた正面に居るのが誰か、という意味ではない。

そのままの意味で、後ろであり、尚且つ正面である場所=矛盾した存在しえない場所に居る者が誰なのかを当てよ、と言う意味なのだ。だから当てようがないのである。

当てようがないのだから、

輪の中の鬼が輪を出られることも絶対にない=輪廻の輪から解放されることは絶対にない、という、当時の苛酷に環境に置かれた人々の悲哀を歌ったものであったということだ。

 

まとめると、

籠の中の鳥が出られる時期は、夜明けの晩に鶴と亀が滑った時だ。後ろの正面の人物を当ててみよ。=地上で魂修行している人間が輪廻の輪から出られる時期は、絶対にやって来そうもない。

だってキミ、有りもしない場所に居る人(輪廻から抜けた人)が誰なのかを当ててごらんよ?

という解釈ができる。

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 3.対策

もっとも、これは昔の歌。江戸時代の中頃に初めて文献に登場したらしい。

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今とはだいぶ異なる時代に創られた歌であることに留意しなければならない。

 

科学は未発達であるし、貿易や国際交流もしていないし、インターネットもない。

光のスターシードの地上への大規模集団転生も、時期的にまだ行われていない時代の話だ。波動がだいぶ荒く、霊的な知識も集積整理されていない時代のこと。

宇宙とか宇宙人と言う概念すら無かったろう。

 

昔の日本人は西洋文明よりも精神性は高かったという話もある。

確かに、工業的な畜産などをやっていなかったり、肉食を禁止していたり、自然に配慮した独自のリサイクル文化があったり、木と紙でできた家や日本庭園など自然との距離感も近く、人間社会においても和の精神や恥や譲り合いの文化(≒愛)などがあったように、本当にそういった側面があったことも事実であろう。

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江戸時代のエコシステム

 

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三方一両損

 

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肉食禁止令

 

 

しかし盗人や不倫は市中引き回しの上死罪とか、大名行列に土下座しなければ切り捨て御免、とか、飢饉が起きたら娘を身売りする、などといった無茶なことをやっていた時代であることを思えば、やはり現代社会とは隔世の感があろうと思う。

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市中引き回し

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江戸時代の飢饉

 

人権とか、法秩序とか、国際協力とか、動物愛護や自然保護や地球環境など、色々な改善へ向けた(おそらくは宇宙からの援助に基づく)不断の努力が行われてきているのであり、現代世界や日本の精神性は「かごめかごめ」が創られた江戸時代当時とは、比較にならないほど高くなっている

 

そして、地球の波動を上昇させることが大宇宙の大きな方針としてあるのであり(それは1987年に決定されたとも聞くが)、2012年に地球波動のディセンションが底を打ってアセンションの時代に入り、2018年には幽界トラップの大部分が撤去されたのだ、という話までもがある。

※幽界トラップについては拙記事「『永遠に幸せになる方法、見つけました。』を巡る考察」の「対策」部分を参照のこと。

kaiunsite.hatenablog.com

 

一説には、嘘か誠か45億人の光のスターシードがまとまって地球に転生し、地球人の救済や波動上昇に貢献するためにやってきた、と言う話まである。かつてなかったことであろう。波動の高いスターシードは、ただその場に存在するだけで周りの波動を上げていくと言われる。地球は今、エレベーターとかエスカレーターのように全体的に波動が上昇している状態と言えるだろう。

 

かごめ歌の創られた当時とは、まるで状況も環境も異なるのである。

だから、ずっと永らく地球に居た魂をも含め、天から遣わされた聖人君子とか長く厳し修行を積んだ覚者でなくても、輪廻の輪から抜けることができて、高次元へ次元上昇することが選択肢として視野に入ってきているのである。

 

大変恵まれた時代に生まれ生かして頂いていることを、筆者としても心より感謝したい。

「永遠に幸せになる方法、見つけました。」を巡る考察 ~幽界トラップという名の蜘蛛の巣に捕らえられない為に~

先ずは、以下の動画を見て頂きたい。(軽く閲覧注意のこと。)

 

永遠に幸せになる方法、見つけました。


www.youtube.com

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1.歌詞

 

むかしむかしその昔 さざ波が洗う砂浜で
永遠を誓うその男女(ふたり) 花嫁が軽く呟きました。
“あのね、あのね、知ってるかな?” “ミナミの楽園、希望の都。”
“願い事叶うその場所へ” “行ける方法・・・見つけました!”

そう言い残して消えてしまった 永久に続く今、手に入れる為に。

“ハーイ、どーもー” “皆さーん!” “司会の、ワタシでーす!” “ハァイ”
“突然ですが、” “あなたの願いを” “叶えさせていただきまーす!”
“それでは皆さん” “お待ちかね!” “原罪ゲーム” “いってみよー!”

“ルールは簡単です!” “正しい手順で” “一言一句” “間違えないで” 

“唱えてくださーい。”
“準備はいいですかー?” “覚悟、出来てますか?”
“間違えたら・・・” “わかりますよねえ?”

“秘密のコトバですから・・・” “絶対” “ぜったい” “ゼェーーーッタイ” 

“間違えないでね!”

レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール 
犯シタ罪ヲ告白セヨ 犯した罪はありません!
マリア様ノ仰セノママニ・・・ひとつの答えを導き出す!

レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール

レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール・・・

ずっとずっと待ち続け 永遠、誓ったあの場所で
老いてしまったその花婿(かれ)は 静かに息を引き取りました。
“あのね、あのね、知ってるかな?” “ミナミの楽園、絶望の郷。”
“願い事叶う、その場所へ行ける方法・・・見つけました!”

そう綴られた花嫁(かのじょ)の手紙、誰にも読まれず朽ち果てて消えた。

“ハーイ、どーもー” “皆さーん!” “司会の、ワタシでーす!” “ハァイ”
“アラ?” “またあなたじゃなーい” “髪切った?” “切ってない?” “アラ、そう。”
“それでは皆さん” “お待ちかね!” “罪状ゲーム” “いってみよー!”

レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール  
犯シタ罪ヲ告白セヨ。 犯した罪がありました!
マリア様ノ仰セノママニ・・・ひとつの答えを導き出す!

レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール
レグバルクリヤンザンダスアティボン レガトルアルバンザンドライモール・・・

やったね♪ オメデトウ♪

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2.考察

 

この歌が、いったい何のことを言っているのか。

歌詞の内容が、何を意味しているのか。

顕在意識レベルで自覚して分かっている者は、そう多くはいまい。

だが、とても重要なことを言っているということは、潜在意識レベルでは、

恐らく誰もが分かっているのだ。

再生回数の多さが、それを物語っている。この記事を書いている時点で、

352万再生だ。(もっとも、アップロードされた時期はかなり前だが。)

 

そして歌と言うのは往々にして、

世の中の真実や真理を反映していることがよくあるのだ。

映画や小説などもそう。ただの歌だからフィクションだからと馬鹿にしたり、

軽く扱うことができない理由はそこにある。

そしてこの「永遠に幸せになる方法、見つけました。」も、例に漏れないのである。

 

筆者なりに、この歌の解釈をしてみる。

歌詞の全てではなく、重要なポイントに絞っていきたい。

 

まず、「ミナミの楽園、希望の都」(0:51)

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今いるところでは無さそうだが・・・

 

これの意味するところだ。

ミナミの楽園って、何だろうか?南の島か?
いいや。これは、死後の世界=幽界の話であると考える。

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幽界は現世界と限りなく近く、重なって位置している

 

そのすぐ後で、「願い事叶うその場所へ」(0:54) 「永久に続く今」(1:05)

という歌詞が続くためだ。

人間が死んだ後にまず行くところは、幽界とされている。

幽界は夢と同じ世界だから思ったことが即座に実現したり、

生前こだわりがあったことを延々とやり続け繰り返していたりすると言われる。

ただ幽界にも良い場所と悪い場所があって、

良い場所を「天国」とか「天界」ということがあり、

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悪い場所を「地獄」ということがある。

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この歌では、幽界の天国のことを、「ミナミの楽園、希望の都」と、

最初に歌っているのである。そして少し前後するが、

「そう言い残して消えてしまった」(1:02)

これは、歌の主人公の「花嫁」が、自殺か病死か寿命か何なのかは分からないが、

亡くなったことを暗に意味していると考えられる。

 

ここまでは、とりあえず良しとする。

(亡くなっているので、本当は良くはないがとりあえずということで。)

 

問題は、この次のパートからなのだ。

まず最初にここで断っておくが、タイトルに「幽界トラップ」と入れている通り、

ここから先は、とある「罠」なのであり、抜けること・回避することができる「罠」なのだが、混乱を避けるために、その抜ける方法はこの記事の最後に記すこととしよう。

まずは歌の解説から先に記していきたい。

 

浜辺のシーンから突如として場面が切り替わって、

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「懺悔の部屋」(1:15)

と、大きく表示された黒画面になり、その後、

 

「禁断の儀式」「未来永劫 永遠永久(上下反転)」(1:16)と、

画面いっぱいに表示されたほんの一瞬間のシーンが映り、そして、

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「ハーイ、どーもー」「皆さーん!」「司会の、ワタシでーす!」(1:17~1:21)

というセリフと共に、主人公の「花嫁」と思しき人物が、黒いドレスを着こんで、

大きく物騒な剣を持って、一変した装いで暗い背景の中を画面いっぱいに現れるのだ。

 

 これらはいったい何を意味するのか?

一つ一つ見ていこう。

まず「懺悔の部屋」(1:15)

これは、人は死んだ後に幽界に入ったら、

反省部屋のような所へ行かされると言う話があるのだ。そしてそこで、

生前の行いを、鏡とか水晶玉、スクリーンのようなもので全て見せられて、

「君は生前、こういう所が良くなかったね」「こうした方が良かったよね」

という反省をさせられるのだという。誰が反省を促してくるのか?

それは、天使であったり、神様であったり、キリストであったり、

エンマ大王であったり、様々な神々しい装いをしているという。

その存在は、死者によって見え方が違うというのである。

 

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キリストの「裁きの座」

 

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閻魔大王浄玻璃の鏡

 

 

しかし、それらは実は、自分自身の生前の信念が作り出す幻影なのである。

死後にそういう神々しい存在が現れて、自分が裁かれるという、

仏教やキリスト教イスラム教、ヒンズー教を初めとする古今の多くの宗教で、

説かれてきた教えを固く信じていると、幽界なので、自らを裁く存在を自らが創造し、出現させてしまうのである。

 

それが、

「ハーイ、どーもー」「皆さーん!」「司会の、ワタシでーす!」(1:17~1:21)

という、「司会のワタシ」の正体である。

この場合の「司会のワタシ」は、

天使や神様やキリスト、マリア様、エンマ大王のこと。

自らの生前の信念体系(思い込み)が創造してしまった、自らを裁く存在である。

自分で自分を裁くということになってしまうので、「司会のワタシ」なのである。

 

裁きの結果がOKであれば天国行き、NGであれば地獄行き。ということになる。

その裁き・審判のことを、「禁断の儀式」「未来永劫 永遠永久(上下反転)」(1:16)

と表現している。

 

これらの自分の創り出したはずの神々しい存在は、厄介なことに、

「もしこういう場合があったとしたら、どうするのが正解ですか?」

という、質問やクイズのようなことをしてくることもあるというのだ。

その質問やクイズは、正解するのが非常に難しいような内容の代物であったり、

選択式クイズなのに、答えが選択肢の中に入ってなかったりするケースもあるそうだ。

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いじわる問題、無理ゲーである。

 

関門クイズの答えが選択肢の中に入っていないと言う点では、

千と千尋の神隠し」のラストとも類似する点がある。

千尋が湯婆婆からある問題を出される。集められた豚の集団の中から、豚に変えられた両親を探し当てろ、というものだ。

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千尋はこの中には両親は居ないと真相を当てたことで、この問題をクリアし、両親と共に元の世界に変えることができた。

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これらの質問やクイズに上手く答えることができたら、

良い所(天国)へ案内してあげるよ、

上手く答えられなければ、

悪い所(地獄)で反省してくださいね、と言うことになるのである。

 

そしてその質問・クイズこそが、いじわる問題・無理ゲーこそが、

ここでやっと歌に戻るが、

「突然ですが、あなたの願いを 叶えさせていただきまーす!」(1:24~1:54)
「それでは皆さん お待ちかね!原罪ゲーム いってみよー!」

「ルールは簡単です!正しい手順で 一言一句 間違えないで 唱えてくださーい。」
「準備はいいですかー? 覚悟、出来てますか?」
「間違えたら・・・わかりますよねえ?」

「秘密のコトバですから・・・絶対 ぜったい ゼェーーーッタイ 間違えないでね!」

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の部分と、そこからさらに続く、

リズム音ゲーに見立てた意味不明の矢継ぎ早の文字列の、

嵐のような羅列の箇所なのである。

難しく答えようのない問いやクイズが、反省部屋で行われることを表現している。

 

この歌では、無理難題の問い・クイズ・試験に奇跡的に合格したことを前提として、

話が進められる。(が、それは先ほどの千尋の例のような本当の意味での「合格」ではないのだ。詳しくは「3.対策」を参照されたし。)

場面が、懺悔の部屋から夕陽の浜辺のシーンへ切り替わることで(3:02)、示されている。

ただし、ここで注意すべきなのは、主人公の「花嫁」が、

冒頭のシーンとは違い両手に手錠をはめていること。

この時点で何かに囚われていることを意味している。

 

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最初のシーンではなかった手錠がかけられている

 

「ずっとずっと待ち続け 永遠、誓ったあの場所で」
「老いてしまったその花婿(かれ)は 静かに息を引き取りました。」(3:19~3:33)

これは先に亡くなった主人公が、幽界で彼が死ぬのを待ち続けたことを意味している。

幽界はこの世と重なり合う世界なので、次元が少し違うだけでとても近い世界なのだ。

要は幽霊として、彼女は彼を待ち続けた、ということである。

 

「あのね、あのね、知ってるかな? ミナミの楽園、絶望の郷。」
「願い事叶う、その場所へ行ける方法・・・見つけました!」

「そう綴られた花嫁(かのじょ)の手紙、誰にも読まれず朽ち果てて消えた。」

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(3:34~3:56)

この辺から、解釈が少しだけ難しくなってくるように思え、少し迷うが、

これは、幽界から幽霊として彼女は、彼を始めとする肉体を持った生者へ、幽界のことを語りかけ訴えかけたが、誰にも気づかれずに、皆亡くなってしまったことを意味していると、筆者は考える。

 

亡くなった者たちが彼女を置いて幽界ではなく高次元へアセンションしたのかどうか、

それはここでは判断を控える。

なぜなら「希望の都」から「絶望の郷」へと表記が変わっており、彼女が生きている者たちへ幽界から忠告・警告をしているという見方が成り立ち得るから。

ここへ来てはいけない、ここは絶望の郷である、という警告だ。

生前の仲間たちが、自分を置いて高次元へ還って行ってしまったともとれるし、自分の警告を無視して幽界に後を追って来てしまった、ともとれるということである。

 

次に、夕日の浜辺のシーンから、また懺悔の部屋のシーンに移る。(4:07)

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ここは解釈が本当に悩ましいが筆者としては、主人公の「花嫁」が、輪廻転生をして別の人間に生まれ変わり、生きた後に亡くなって、また「懺悔の部屋」へやって来て、「司会のワタシ」=自分の創り出した裁く存在に、裁かれている様子を表していると推測する。

別人になったのなら、姿かたちが変わっていても良さそうだが、肉体を離れた魂ということならば、同じ姿かたちをしているとしても、とりあえず矛盾はない。(なにより話の流れとして、同じ姿かたちをしていた方が分かりやすい。)

 

「髪切った? 切ってない? アラ、そう。」(4:15~4:17)

この部分も解釈が悩ましい所であるが、

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髪切った?=神切った?

で、神を信じるという宗教の信念体系から抜け出たか?という、問いなのだと思う。

宗教の教えが、天国と地獄や死後の裁く存在を、信念として生前に植え込むため、

死後に懺悔の部屋へ行かされることになるからである。

「アラ、そう(残念ね。)」

というのは、

神を切っていない=宗教の死後の教えの信念体系から抜け出ていない、ということを、残念に思ったために出た言葉と言える。

 

こうして、自分が自分に裁かれて、罪状ゲームという無理ゲーが繰り返され、幽界に囚われて、輪廻転生が繰り返されることになるのである。

そう、手錠の意味は、幽界に囚われていること。あるいは、輪廻の環に囚われていることを表しているのである。地球内で輪廻をすると、魂が宇宙に居た頃や前世の頃の記憶を失う。かくして、永遠に輪廻を繰り返すことになるのだ。(「永遠に生きるという罰  (5:01)」)

 

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「絶対の愛と服従(5:00)

これもキリスト教などを中心とする宗教的な価値観の一つであり、

宗教的な信念体系に囚われて、あの世において自分で自分を裁いてしまい、

永遠に輪廻してしまっているということを表している。

「愛は」、確かに宇宙最高法理である。

※拙記事「トイレに神様なんていない」参照のこと。

kaiunsite.hatenablog.com

 

しかし、本来無条件であるはずの「愛」が、

歪められて、幽界でジャッジするための都合の良い物差しとして、条件付きの「愛」として扱われ解釈されていると思われる。

だから愛を与えられる一方で服従を伴っていたり、愛の押し付け押し売りだったり、特定の価値観の下で認定された愛だったりするのだろう。

 

少し前後するが、

天獄と時獄 どっきどき!♡ ゲーム」(4:20)

罪状ゲームの結果、仮に良い所へ行くことができたとしても、

幽界の中の天国なので、そこは本当の天国ではなくて「天獄ということ。幽界の中の、地獄よりはちょっとマシなエリアというだけ。「冥界」と呼んだりもすることもあるようだ。

5次元以上のアストラル高次元のことではないのである。

地獄ではなくて「時獄」としているのは、永遠に輪廻してしまうという、

終わりのない生のことを「時獄」と言っているのだろう。

 

以上が、歌の解説である。

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3.対策

 

これは歌ではあるけれども、真実をなぞっている歌なのである。

少なくとも筆者は、そのように感じる。

真実である以上は、これは大変なことだ。

永遠に輪廻してしまうとか、魂が永遠に捕えられてしまうという次元の話だから。

この世でお金が無くて生活が苦しいとか、受験や就活に失敗したとか、

失恋したとか離婚したとか結婚できないとか、そういう話とは文字通り次元の違う話なのである。

一つだけの人生の話ではなく、いくつもの人生を内包した話ということになるのなら、重大なことのはずだ。

 

だから、歌なんだけれども重大な真実だから、対策が必要になってくる。

死んだ後の話だから、「終活」ということにもなってくるだろう。

前置きはこのくらいにして、では、この歌の主人公の結末のように永久に輪廻しないようにするためには、どうしたら良いのか?ということについて考えてみたい。

 

①そもそも幽界は消滅しかかっている

ここまでさんざん脅かすようなことを書いてきて大変恐縮なのであるが、そもそも2018年に、光の善意の宇宙勢力によって、幽界トラップを形成している装置の大部分が撤去され、天国や地獄などを含めた幽界の領域のかなりの部分が消滅したという話がある。

 

ここで幽界「トラップ」という言い方について少し説明をしておくと、

幽界トラップとは、地球上の周りに幽界をハエ取り紙のように設置し、地球に魂を閉じ込めて、地球から出られなくするようにしてある幽界の仕組みのことである。

魂が幽界から先へ行けず、宇宙へ出ることなく、幽界から地球上の肉体3次元へ生まれ変わる。地球内で魂を回す仕組みで、これを輪廻と呼んで、地球外へ魂が行く転生とは区別している。

大宇宙において、魂の成長や成熟がまだまだ不十分とされている者や何かしら問題のある者たちが、その魂の成長や矯正のために地球に送り込まれ封じられていると言われる。

良く言えば学校、悪く言えば刑務所。もっと別の言い方をすると実験場とか、酷い場合にはゴミ捨て場、と言われることもあると聞いた。

ただ、地球の進化発展や地球人の魂の支援や救済のために、宇宙から敢えてリスクを冒してやってきた光の魂存在も、かなりの数が居ると言われ、地球の人口の半数以上も居るという話まである。

 

幽界トラップは1万年以上も続いてきたらしいが、地球46億年の歴史からすると、相対的にはかなり短いとも言えよう。

そしてその幽界トラップが、つい3年前に撤去されたという話があるのだ。

事実であれば、死後にそもそも幽界に囚われるケースが少なくなってくると思われる。

昔であれば、釈迦やキリストなど元々高次元から遣わされた魂存在や、日蓮上人などの修行を重ねたごく一部の覚者しか、幽界トラップを超えて次元上昇することはできないとされてきたが、今は時代が変わってきたということである。 実に良い時代になったものだ。

このことは、宇宙へ還りたがっている立場の魂たちにとってみれば、当然福音であろう。

ただ、1万年以上も長きにわたって続いてきたらしきものが、ここ数年前になって突然なくなったりするものだろうか?という疑問が、筆者にはあることも事実であるが。
(そういえば今は亡き船井幸雄が生前本の中で、幽界を念で瞬時に消滅させた、と言っていたのを見たことがある気がする。その時は単なるヨタ話、トンデモな妄想に過ぎないと思っていたが、今となっては、あの話は本当だったのかな?とも思えてくる。)

 

ただし、消滅しかかっている幽界ではあるが、まだ完全には消滅していないと言われ、(幽界が完全に消滅するのは2030年ごろではないか、という説もある。)また、

現世に生きている人々の想念が創り出す世界であるから、絶えず生成されては消滅することを繰り返しているとみられる。

 したがって、依然として幽界はあることはあるのだから、幽界トラップに捕まらないように対策をする必要もあると言えるだろう。

 

②死後の宗教的な信念や固定観念を完全否定する

 

幽界トラップへの対策は、まず第一に、幽界で自らを裁く存在を否定することである。

天使とか神様とかキリスト、マリア様やエンマ大王など、生前の自分の宗教的な死後の信念(先入観)があった場合に、そのような存在が現れて、反省部屋とか懺悔の部屋に入れられることになるのであるのだから、まずは死後の宗教的な信念(思い込み)を完全に捨て去ることである。死後観念のある宗教を信じないことだ。

死後世界について、いったん ニュートラルの状態に戻す。

天獄も地獄もないのだ、という認識をまずは持つこと。

死後裁かれるということはないんだ、という認識を持つこと。生前のことは、魂にとってポジティブな面も、ネガティブな面も、全て必要な経験・データであったから起きたことであって、裁かれるということはないのだ、という認識を持つことが重要である。

だから、宗教的な権威に扮した自らを裁く存在が現れること自体、おかしいことなのだと気が付くこと。そして、その裁きの存在を創り出しているのは、他ならぬ自分自身なのだ、という事実に気が付くことである。人間一人一人が創造の力を持つ、本来は神の分霊なのである。

反省部屋も懺悔の部屋も、裁きの存在も、天国も地獄もないんだ。

あったとしたら全て自分が生前の先入観で勝手に作り出したものなんだ、という認識を、常日頃から持つこと。持ったまま死ぬことが、重要である。これがまず第一。

 

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惑わされない


 次に、それでも死後幽界において万が一、反省部屋とか裁きの存在が現れた場合、どうするか?を考えたい。

長年にわたる宗教上の強烈な洗脳と固定観念により、精神的なブロックが完全に除去しきれなかったから発生した物。と考えて良い。

あるいは、宗教自体入信したり、信じていたりしていたわけでは決してなかったけれども、死後これこれこういう世界(天国や地獄、裁きの存在)があるんだよという話だけは知っていて、それを心のどこかで無意識に信じてしまっているケース。完全なる無神論者になり切れていないケースだ。これもブロックが完全には除去できなかった、ということになる。

 

まずは、もし仮に裁きの存在が現れたら、その存在のことを頭から信用しないことだ。

訪問セールスやキャッチセールス、宗教の勧誘か何かのような目で疑ってかかること。

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天使とか神様を装っているから、神々しいような、まばゆいばかりの光を放っていることも多いらしい。けれども、信用しないこと。

光の方へ付いて行かないこと。光っているからと言って、正しいかどうかは分からないのだ。

ブラック企業の求人広告だって宗教だってなんだって、表向きには良いことを謳うものだ。同じことで、光っているからと言って直ちに信用してはいけない。それはこの世でもあの世でも同じことなのである。

闇に包まれても恐れないで、本物の高次元からの迎えが来るのを待つこと。本物の高次元からの迎えはジャッジしないから、そこで見分けはつくはずだ。

何かを質問してきたら、「答える義務はない。」と言うこと。

逆に、「あなたは何者だ?名を名乗りなさい。」と問い返すことだ。

そして、反省部屋・懺悔部屋のような所へ連れていかれようとしても、くれぐれも決してホイホイとついて行かないことだ。(だってそれは、キャッチセールスや宗教の勧誘に等しいのだから。)

クイズ・無理ゲーには、一つの答えを導き出して正解を答えるのではなくて、

そもそもクイズに参加しないのが本当の正解。乗ってはいけないのである。

 

とにかく光に包まれた神々しい存在であるほど、言うことを聞かないこと。

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↓は参考図書である。

 

 

③満足しきった状態(未練を残さない状態)で死ぬこと

今世に未練が残っていると、留まろうとしてしまい、肉体3次元と重なり合った近しい領域である幽界に囚われやすくなる。

だから、後悔のない人生を送るということが何よりも大切である。また、やり残したこと、やらないで後悔していることや、心残りになっていることなどは、死ぬ前に全て終わらせる終活も重要になってくる。

終活というと死の準備しているようで何とも後ろ暗いように見えるが、死は終わりではなく魂が別次元に映るだけの話で、そして魂が幽界に囚われて無限ループしないようにするための手段の一つということで考えれば、終活は前向きなものであるという見方も成り立つ。

ただ、幼い子供を残した場合などは、どうしても未練が残ることになりがちだろうと思う。無理心中するわけにもいかないし、だから、スターシードの多い現代では、未練を残さないために敢えて結婚しなかったり子供を持たなかったりする人が多いという話も、聞いたことがある。

 

④この世から引き留められないこと

この世で残された家族などが、正しい死後の霊的知識を持っていないで、死んだら無になるとか地獄へ行ってしまうんではないかとか心配ばかりしていると、その生者の思いが引力となって死者の魂を幽界に引き留めてしまうことがあるそうだ。

だから、死ぬ本人だけではなく家族などの周りの人間も併せて、誰もが正しい霊的知識を持つこと。これが必要となる。

死んでも終わりではないんだ。天国も地獄もないんだ。高次元(=宇宙)へ次元上昇して行けるんだ。他所の星へ転生することもできるんだ。元々宇宙に居た人がそもそもほとんどなんだ。還るだけなんだ。

という認識を持つことこそが、肝要なのである。もちろん、元々地球に居た人だって、魂が進化成長していけば、他所のもっと良い星へ転生することもできるようになるのである。もちろん地球に留まることも自由であろう。

 

⑤霊体が傷ついていない、修復してある状態であること

人間の身体は肉体の上に霊体として、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体など複数種類を重ね着するようにまとっている。(細かく分類すると、もっと多くの霊体をまとっているそうだ。)

だからこの世での「死」は、肉体次元が終わるだけで、その上のエーテル以降の次元は終わらないのだ。しかし霊体が傷ついていると、幽界に入らずに迂回して、あるいは幽界から、それよりも上のアストラル界へ昇っていくことが(少なくとも自力では)困難になると言われる。

この霊体修復に関しては、youtubeにアップされている各種の瞑想ワークとか、ヒーリング音楽などあるが、効果のほどは不明だ。筆者個人としては、宇宙最高法理である「愛」のエネルギーが鍵を握っていると見ている。愛は何でも癒してしまう、万能薬のようなものであろう。そうしてくると愛と同調するソルフェジオ周波数の音叉ヒーリングなども、可能性が見えてくる。

 

ただし、確実に実効性あるものに関して目下リサーチ中である。追って報告したい。

トイレに神様なんていない ~「決意と調和」=宇宙最高法理で生きるということ~

最近になってようやく分かってきたことがある。

それは、これまでなんとなく分かっていたことではあったが、腑に落ちるという形で、ようやく理解することができたので、記しておきたい。

 

二つある。

まず一つは、「和」の精神のことである。

宇宙の最高法理として、「愛」の精神がある。これは、種々のチャネリングを通した情報、文献を拾い集めた結果で、判断に至ったものである。

この文脈上の「愛」とは、決して男女がアレコレとイイコトやること、その類ではない。そのことにまず注意が必要だ。

「愛」という造語、概念は、とても歴史が新しく、明治以降に西洋から輸入してできたものである。しかし宇宙最高法理とは国連憲章どころの騒ぎではないほど重要なものなのであるならば、そんな最近になって生まれた概念であるわけがない。太古の昔から存在する概念でなければつじつまが合わないはずである。

だから宇宙最高法理の「愛」とは、我々が用いている「愛」とは別の概念、つまり誤訳であると考えるのが相当である。

 

宇宙最高法理としての「愛」の真義は、日本古来より存在する「和」の精神のことであると予想する。「和」なら、聖徳太子以来、和を以て貴しと為すと、「国是」とされて、聖徳太子はお札にまでなった偉人の扱いであり、「和」は、「和国」という国号にまでなった。

最近では「令和(和を令ずる)」という元号にまでなり、それを発表したガースーは、

総理大臣になってしまった。これは、本当は国会議員にと言うよりは、天により選任されたものであろう?

 

それほどまでにこの国で強調されてきたのが、「和」なのである。

「和」は、繰り返し繰り返し強調され過ぎるほどに強調され、重視され、最重要の地位を占めている。宇宙最高法理の「愛」とイコールか、少なくともニアリーイコールであると考えて間違いがなかろう。

 

ただし注意しなければならないのは、本当の意味での「和」の精神とは、例えばなんでもかんでもつるんで集団行動・団体行動をとるとか、周りがそれをやるから自分もという隣百姓とか、空気を読んで目立ったことしないとか、人目を常に気にするとか、そういうことではないはずなのである。

本来は、これは人と調和して上手くやっていく、という精神だったはずである。

その中心は、恐らくは

「許す心」

「相手の立場に立つ心」

「尊敬する心」

「思いやりの心」

「感謝の心」

などが支柱であったはずと考える。

 

「許す心」は、そりの合わない夫婦がいがみ合いながら長年一緒に暮らしているという事実がよく魂修行と言われることなどから、和の精神の一部であるように思う。

「相手の立場に立つ心」は、カルマの法則で誰かに嫌なことをした場合は嫌なことが返ってくることがある、という事実に基づいた推論である。

「尊敬する心」は、古代中国の孔子などが儒教と言う学問まで作って、「礼」を説き、長年影響力を与え続けてきたことによるもの。宇宙最高法理の一部であると考えれば納得がいく。

「思いやりの心」は、様々な福祉的な活動の隆盛を見ていれば一目瞭然のことだ。寄付文化が根付いている国や民族まであり、成功を収めている。何か良いことがあるから、行われているのだ。

「感謝の心」は、「ありがとう」とひたすら唱えると良いことが起こるという、知る人ぞ知る有名な法則から導き出されたものだ。

 

筆者個人としては、和の精神を上記の形で再定義したい。

この本来の意味での「和」の精神が、憲法国連憲章を軽く凌駕する、宇宙最高法理なんだぞ、ということが、まず分かってきたことの1つ。

 

二つ目。

それは、何かを決意・決断するということが、人の魂を成長させる、ということである。

軽すぎるものでは、あまり意味がない。単なる日常のルーティン化した行動ということになってしまう。

少し負荷のかかる決意からが、成長の始まりなのだろうと思う。

というのも、トイレ掃除や断捨離、靴磨きで運が良くなる、という話が有名だからだ。

トイレ掃除とか断捨離が「運」が良くなるとされるのは、波動が清浄になるからというよりも、小さな決意が伴っていることが多い為であろう。多少なりとも、守りの姿勢から思い切って一歩踏み込む行為なのだ。

トイレに神様がいるから運が良くなるからではなくて、そもそも自分が神様で、トイレ掃除をするという一歩踏み込んだ決意をすることで、 その神様としての自分の霊性(≒霊力≒運)が上がる、ということが、真相だったのである。

 

運が良くなる、というのは、言い換えれば波動が強くなる、ということ。

運が良くなる≒波動が強くなる≒人の魂が成長する、ということで良いのではないだろうか?魂が成長する≒アセンションする、ということなのかもしれない。

 

だから決意が運が良くなる≒波動が強くなる≒人の魂が成長する、ということで演繹的に考えると、風水的な考え方の他に、競馬や競艇などのギャンブルで思い切って大金つぎ込むこととか、行ったことのない個人店に入る行為や、買い物・外食・ネットショッピングなどで高額な物を(なるべく時間をかけずに)買う・頼むという行為も、「決意」ということなのだから、人の魂を成長させるということになる。

 

そう考えると、競馬や競艇、パチンコのプロというのが存在し得る理由が理解できる。ギャンブルも人の魂を成長させることがある、ということになるからだ。必ずしも、仕事が全てではないのである。

最近、ホリエモンが若い連中に高級うな重を敢えて外食で頼むことで、得られる情報があるとかなんとか言って勧めていたが、「決意」で魂を成長させることを言っているのだと思えば、納得がいく。

またそういえば昔、コンビニ弁当やスイーツは、結構高いものが多いが、某アイドルグループが男らしさを競うゲームとかで、コンビニでスイーツなどを時間をかけずに決めて買うという遊びをしていたという話を、耳にしたことがある。これも「決意」を意識した魂磨きの一環とみて良いだろう。

 

決断ということになると決意よりももっと重くなる。意を決してということになる。腹をくくるというニュアンスが出てくる。負荷が大きければ大きいほど、成長の度合いは強くなっていくのだろう。

日常のルーティンや通常思考や行動と、決意とか決断の感覚との違いは、自分の肌感覚で感じて分かるはずだ。選択や決定に負荷を感じることが、その目印と思って良い。

 

そして、先に述べた「和」の精神と、決意・決断・実行が同期している状態と言うのが、最も理想的な状態と言えるのだと思う。

具体的には、軽いものならば道で迷っていて困っている人を見かけたときに、「大丈夫ですか?道にお困りですか?」などと声をかける行為とか、お年寄りに席を譲る行為や、迷子の子供を保護する行為などが、これに当たるだろう。

重いものなら、海や川で溺れている人を飛び込んで助けるとか、

臓器提供して誰かを助けるとか、とにかく通常は踏み切るのが躊躇われる行為。

踏切で轢かれそうになっているお年寄りを、自分の命を犠牲にして助けた女性の話もあった。これは最高に徳の高い行為の一つであろう。

 

先に挙げた風水やギャンブル、買い物や外食などと「和の精神」を結びつけるとなると、これは少し工夫やアイデアが必要かもしれない。

例えば流行っていない潰れそうなお店があったとして、そのお店を助けたいという思いで、高額な商品やサービスを敢えて購入するということであれば、これは決意と和が結びついている行為と言うことになる。

あるいは、競馬で大穴で大金を当ててそのお金を子ども食堂に寄付したいとか、そういう思いで馬券を買う行為。必ずしも当てなくて良い、そうと決意して買うだけでよい。

それだけで決意と和が結びついていることになり、魂が成長し徳の高い行為を実践しているということになるのだ。もちろん、当てて実際に寄付することがベターであることは言うまでもないが。

 

見えない「ポイント」があると思えばよい。

和の精神と決意・決断・実行がマッチングした行為があれば、ポイントが貯まっていくのだ。両者を掛け合わせた行動や言動を繰り返し繰り返し、継続的にすることだ。

そうすることで、ポイントは貯まってゆく。

 

ポイントが貯まっていったらどうなるのか?

それはアセンションをしていくということであるし、

 

あの世で良いことがあるという理解で良いだろう。

 

豊かさを手に入れる法5原則

①今ある豊かさを感謝する。

②具体的な目標設定をする。

③豊かさを手に入れた時のイメージをする。

④なりたい豊かさを手に入れている人に接近する。

⑤お金のブロックを外す。

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①今ある豊かさを感謝する。

今ある物や状況、お金を払うことで物やサービスを得たことを豊かであると思うこと。

出ていくお金に意識をフォーカスしないこと。

お金を使ってお金が減ってしまったという感覚になることを避け、お金を使ったことで逆に豊かになったと思うこと。

 

②具体的な目標設定をする。

月収100万円、年収1000万円を達成する、などの数値を入れた具体的目標を設定する。

紙や手帳などに書いたり、口に出して言う。

 

③豊かさを手に入れた時のイメージをする。

高級ホテルや高級旅館などへ豪華旅行に行ったり、豪勢な外食を食べに行ったり、ブランド物を買って身に付けたり、高級な自動車を買ったり、マイホームを買ったり。などのような具体的イメージをする。

その際に、ワクワク感や嬉しい感情などポジティブな感情を伴って行う。

できるだけ多くの人に喜ばれるような形でお金を消費するイメージである方が、豊かさの実現の速度が速かったり、可能性が高まりやすいと思われる。

 

④なりたい豊かさを手に入れている人に接近する。

例えばネット事業で月収100万円を達成したいのであるとしたら、

既に達成している人の開催するセミナーに出席したり教育コンテンツを購入するなどして、その目標とする人に接近・接触することで、同じまたは近い波動・周波数になり、結果として豊かさの達成・実現に近づくことができる。

 

⑤お金のブロックを外す。

1.お金に関するあらゆる誤った思い込みを無くす。

 

苦労しなければお金は稼げない、特別な技術や技能や才能がなければ高い報酬を得られない、一度レールから外れた人は肉体労働しかない、時給1500円は高い、月給30万円が高い、一日最低8時間労働して残業2~3時間はするものだ、お金を稼いでいる人はずるい・悪い・いけない、ボーナスは今の時代もらえない、みんな苦労して働いてる、社畜奴隷のように働くしかない、自営業やフリーランスなんてたいていの場合失敗する、インターネットは儲からない、起業して失敗すると夜逃げや自殺しなければならない、自分はお金を貰う資格がない、自分は金運やツキがない、自分はずっと底辺のままだ、コスモ銀行に入金しなければお金は得られない、コスモ銀行から借金がある、、ETC

 

などの、お金にまつわるありとあらゆる誤った思い込みを全て紙に書き殴るように書きだし、それを破り捨てるか、ライターで火をつけて燃やして捨てる。

 

2.自分に許可を出す。

私は私が大金を得ること、稼ぎだすことを私に許可します。

と宣言する。